ほんとはRTSの実施について書こうとしたんだが、

 実践について考えるには思想部分が欠けてはならないということなんです。
 
 毛利嘉孝さんの「文化=政治」を読んで、あと友人と話して、学生やら生きてる人として文化なんかを考えることについて考えるなど。おおまかな感じとして、現行の資本主義や新自由主義的行き過ぎの影響で、グローバル的にいわゆる問題が生じていることについては異論は無い。ハイチでの生活があり得ないレベルになっている、日本でも派遣切りされた人がまじやばい。しかし、僕にとっては実感が無い。
 こうやって、今もインターネットにつながって全く生産的ではない作業を行っている。そろそろ昼だしご飯は何にしようかなーと考えている。頭のどこかではアフリカのエイズのことを考えながら。そして5年後の僕の生活について考えながら。実感が無い。
 「資本主義はやっぱりだめだ」という言説は、おそらく正しいのかもしれない。友人が言うように、西暦3000年には全てが破綻し、あの時ちゃんと考えていれば・・・という反省で人類はみんな鬱になるのかもしれない。破綻しきっていない今でさえ、僕たちは全く幸せじゃないのかもしれない。しかししかし、実感が無いな。

 僕にとって見えているのは、今の日本の社会と身の回りの人たちの将来像(ある程度想像できるくらいの)と明日のご飯と今夜のtwitterのTLへの期待くらいだ。非常に問題意識の低い、その日暮らし感覚の、知のかけらも無いような意見だろうか。そうだろう。危機的かも。
 だが、いわゆる先進国に暮らしている若者が、一方で物心ついた時には不況になっていた社会に住んでいる若者が、ハイチの泥団子クッキーについて「リアル」に考えることなんてできるのだろうか?明日のクラブのDJが誰か、の方が興味あるから無理じゃね?問題意識が高い人々もそう思って、同じく自信が無いからこそ、現地の状況を観に行って危機感を自己に反映させたりするのではないか。極端に凄惨な現場を見せようとする自治会的な言説はそんな類に見える。そしてそれは、まぁやってないんでわかんないんですが、ズレてないか?自分の暮らしに反映させられるのかな?

 僕にとって大事なのは、明日を楽しく生きることなのではないかな?

 みんなが高い理想のもとに問題意識を保ち、政治的に働きかけ、社会をより良い方向に進めていく、なんてことはできるのかな。ていうか今までできてねぇじゃん。それこそ進歩史観的な物事の見方なんじゃない。僕にとって重要なのは、動物的だと非難されるだろうけど、明日の「楽しみ」だ。
 つまらないんだよね。楽しくないと人は動かないと思う。特に、いまの日本のような、まだすぐ餓死する状況にないような社会では。5年後はどうなってるかわかんないけど。結局、この見方は根本的に破綻していて、内戦が起きないとわかんないとか飢餓が生じないとわかんないとか、問題を回避しようというものではないのかもしれない。自分の暮らしに直接関係してこないと動かないというような、まさに脊髄反射的でくだらないものなのかもしれない。だが、事実としてあるだろう。

 こう、自分の愚痴を書いていて、前述書にあげられるような「新しい『新しい社会運動』」というものは、既存の左翼的な社会を見る視点に対するアンチ以外のなにものでもないのかもしれないという気がむくむくと起こってきたが、現実として効果がある程度あるのだから、全く無意味というわけではないのだろうとも思う。根拠が弱いかなー。
 
 自分は、マトリックス的な「だまされて楽しい」世界でもかまわないのではないかと若干思う。幸せに生きるってなんなんだー!という問題になってしまうが、自由を求めた先が自由でない死であったりすると、それも一つのやり方だけれども、間違いだとも言える。
 
 本質的な(というものがあればの話だが)問題系に踏み込むとどうしても形而上学的すぎる感じがしてどうなんだろーと思う。僕が、そして多くの人が達成感を感じながらも行動できるのは、今日明日の問題解決なのだ。つまり「僕にとっての現在」という時制しか問題視することができないのだと思う。
 
 そうなってくると、「文化実践」という形で行われる社会運動は、僕の感覚に非常にマッチングしたものであるし、動物としての人間に適した行動なのじゃないかなと思う。

 急にSFの話になるけど、いや、そうでもないのか?ネットワーク化によって世界が一つの村になる→全てが僕になる、ということがもし本当に起きれば、全ての問題は「リアル」になり、行動によってすぐにでも解消すべきだというものになるのだろうか。すぐこうやって夢物語を語るからダメなんだ。実践が至上だと思う一方で、根拠が想像じゃー破綻しますわな。まだ幼いようだ。