(日本のどこかの)ネットレーベルの亡骸に愛をこめて(質問をしてみたい)

ネットレーベルの亡骸に愛をこめて
ネットレーベルの亡骸に愛をこめて - THOUGT LOG

 面白く読ませてもらった。
 そして、頷く部分と、頷けない部分がある。

 彼が主張するように、たしかにネットレーベルに向かう視線といえるものは、2010年前後頃と比べると明らかに減少したといえるだろう。ネットレーベル設立ブームに乗るかのように出現したnetlabel.jpはその立場も曖昧なまま消失し(ドメインは接収され)、R25のような雑誌で扱われることも一時期の流行のように過ぎ去り、そしてなによりも、music forestが消滅した(JASRACのあのデータベースは元気だが)。
 ネットレーベルがどうのこうの、という議論はもはや一部の好事家が話のネタにするような領域に入り込んでしまい、当時の雰囲気が持っていた「エッジな」ワードではなくなった。実際に音楽を作ったりバラまいたりしたい、という人にとっては、サンクラやbandcampのように編集しやすくシェア向きの(そういう意味でmyspaceとは状況が異なるような)無料サービスの方が使いやすい、便利だ。
 当時の日本のネットレーベルの状況にとって特徴的だったのは、彼が指摘したように、ひとつは音源リリースのシステムそれ自体の目新しさ、そしてもうひとつはSNSによる宣伝に依存することで情報のポジティブな循環を生み出してきたという点だ。そしてこれらは、「エッジな」ものとして紹介される時期を過ぎたこと、ネットレーベル自体が増えたことによる宣伝活動への参加行為の多発によって、要するに両者とも陳腐化してしまった。陳腐化し、それらはリスナーが見る景色の背景へと退いていった。日常的なもののひとつになってしまった。
 こうして、彼が主張するような「二度死んでいる」という状況が生まれたのであった。

 こういう風に書くと、たしかにネットレーベルは死んでしまい、さらにもう一度死んだようにも思える。
 だが、彼の主張を一読してぼくは違和感を覚える。それはつまるところ「お前が思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」と言えるのかもしれない。つまり、ぼくの認識自体が議論を招くところでもある。だが、以下の考えが違和感を誘うことを書き記しておきたい。

 たとえば海外の事例。
 歴史的な展開を追ってみると、いわゆる日本でいうところのネットレーベルという呼び名は、英語圏インターネッツ文化から持ってきたものだといえるだろう。それは北欧のハッカー文化が地ならしをし、BBSからインターネットへの流れの中で拡散され、DTMの歴史やMP3の歴史と出会いながら、現在のNetlabelsへと形態を収束させてきたものだ。Internet Archiveを見ればわかるように、世界各地で活動している驚くほど多くのネットレーベルが存在している。
 そして、現在でも驚くほど増え続けている。
 ここで言っている英語圏Netlabelsは日本のそれとは異なる文脈を持つし、ぼく個人としては日本のネタ的な、というか、同人音楽と隣接した文脈として、といった部分に関心があるのだが、一口にネットレーベルとは言っても日本以外のとてもとても広い領域が時空間的に存在しているのだ、ということは知っておいてよい。
 つまり、彼の主張には「日本の」という接頭語をつけた方が良さそうだ。

 さらに、国内のネットレーベルの事例。
 ご存知の通り、ネットレーベルとは運営を始めやすく、同時に運営を中止させやすい。しょっぱなにコンピをいくつか出して、そのまま更新されないまま消えていくドメインなどはネットレーベルを追っている人からすると、わりと普通の話だろう。それはそれでネットレーベルの魅力のひとつだ(参入障壁の低さと、離脱するコストの低さとして。いずれも失うものの少なさは、思いつきを形にするという意味で人を呼び込むだろう)。
 とはいえ、ずーっと、地道に、良いものを、今でもリリースし続けているネットレーベルは多いのではないか?
 分解系の最新リリースは今年の4月だし、マルチネが135番目のリリースをしたのは先々週だ。そして超老舗BumpFootはちょうど1週間前に新作を配布しだしている。TREKKIE TRAXの動きだって気になるはずだ。夏が近づいてきたことで、ネットレーベルの動きもウゴウゴしだしているように感じていたところではないのか。
 ふむ、彼は何をもって亡骸だというのだろうか?

 こうなると、彼の言う終わりの季節とは、彼にとっての終わりでしかないように聞こえてきてしまう(彼にとっての「デカイ一発」が機能不全だった、彼にとっての「工夫」はBandcampにすでにやられてしまった、そうして、彼にとってのネットレーベルは死んでしまった)。先に書いた陳腐化についても、むしろメディアの透明化が完遂した状況として、ネットレーベル的音楽実践が広まりつつある証左にすら見えてくる。なのにそれを、あたかもネットレーベル全体の終わりであるかのように語っている、というように見えるのが、ぼくの得た違和感の正体である。
 これは考え過ぎだろうか?
 ぼくにとってとても気になるのは、いまのタイミングで彼がこうした表明をしたことの意図だ。こうしてちょっとした文章を書いてしまったように、ぼくは彼の考えに非常に触発された。自分はネットレーベルという形式に対してなんらかの好みを感じているのだなぁ、と思い出させられた。なぜ彼はこのようなきっかけを作り出したのだろう?彼は『「0」「腐る」と「熟する」』と書いているが、その違いをどのように考えているのだろう?腐敗と発酵の違いとは、人間から見て利用可能かそうでないか、という点に依存している。ネットレーベルいついてのその違いを作り出す基準線は何だというのだろうか?