問題意識が希薄なのが問題

 卒論、という一つのフォーマットにおいて自分の考えていること全てを書けるなんて思っちゃいけないんだと思う。論文という形で考えを体系化していくためには、どこかで自分の興味やそれに対する考えにしっかり制限を加え、枠を設定する必要があるはず。そのためには、自分の興味の範疇を確認し、それの枠を具体的に把握し、その上で今回書ける部分、文字にすることのできる部分を順々と言語化していかなくてはならない。しかも言語化していく中では、具体的なデータや理論の収集と展開を行わなくてはならない。というか、その部分の作業が「卒論を書く」という行為か。
 んで、今の僕はいったいどのあたりまでできているのか。
 「枠を設定する」という作業未満で止まっているのが現状なのではないかと思う。悲惨だ。自分の向いている方向だけは、なんとなくわかる気がする。向いている方向に見える、表面の移り変わりは指差すことができる。作業としてその先にある、今回書くことの枠を設定するという部分の作業ができていない。使うべき理論や現象の収集ができていない。そう、問題提起がされていないのだ。

 以下ブレインストーミング的にメモ

 インターネットの普及とデジタルデバイスの普及によって、現代の人間は、今まで成立していた生活を一変させてしまうような時代に入ろうとしている。「文字」を開発した時、「印刷技術」を開発した時、それらと同程度のショックがインターネット以前と以後には存在するはずだ。それらを予見した考察として、アルビン・トフラーの「第三の波」という考え方や、音楽という切り口からそれを見た、ジャック・アタリの「作曲のレゾー」というものがあげられる。イヴァン・イリイチは学校や医療の制度を、資本主義的な管理システムを作動させるための制度だとして批判し、代わりうるような学習のあり方としてwebという概念をあげていた。インターネットの成立にはイリイチの思想が反映しているという。相互に関係しあう、というやり方での相互高め合いにとって、インターネットほど効率の良いメディアは今まで存在していなかった。また、環境問題や人道的な問題がここ近年よく問題にされている。人類はどこかの段階で今まで数十年やってきた資本主義的な方法をやめなくては滅びてしまう!多くを食って先に放り出すようなやり方をやめなければならない。どうするのか?世界的なネットワークによって省エネなライフスタイルが実現できるかもしれない。自由な。音楽業界や音楽を生産・消費する部分において、ここ数年、つまりインターネット普及以降の変化が著しい。その基礎的な部分での変化は、著作権問題を表面化させている。音楽に関する部分の「今までの常識の変化」は著しい。インターネットというメディアが僕らのライフスタイルを変更させている状況を確認するのに、この音楽の変化を切り口にして見ていくのはちょうど良い。

 あれ適当に書いているとやっぱダメだ。何がしたいのかわからん。

 下のエントリで書いたような、表層的な部分の今の音楽を取り巻く状況の変化、特にネットを使う、にフォーカスするんじゃなくて、卒論では、僕がそこに注目するにいたった理由を書こうと思った。つまり、インターネットが情報論的転回を引き起こしているということ。その背景にはイリイチの産業主義批判が横たわっていて、インターネットはそういうニュアンスを成立の意義からして持っているということ。だからインターネットによって、人間は新しい段階に入るのだということ。それはマクルーハンの言うような地球村的なものであって、原始共同体的な互助精神を持ちつつ、近代化によって人類がこうむってきた恩恵を手放すものではないというような。かなりポジティブ。
 それを今日、また違う教授に相談してみたら、その背景となる部分を「はじめに」として書く必要はがっつりあるが、中心となる部分は音楽周辺の変化についてにするべき。そして、その変化を叙述するやり方として、いま本を読んで得られるような二次的な情報じゃなくて、僕自身がフィールドに入っていって直接回収してきた一次情報を基に書くべき、と言われた。不完全な、まだ先行きの見えない論考にはなるかもしれないが、評価できるものんいなるはずだ、と。
 一次資料とな?!
 フィールドはどこなんだ??
 そう、自分が入るべきフィールドを決定できない時点で、最初に書いたように自分の範疇を決定できていないということがよくわかる。ふむ、では逆に、入る先のフィールドを決めてみよう。実際にするかはわからないけど、するつもりで範疇を決めよう。そうだ、そうしよう。