ふわふわ

 目次、とまでもいかない卒論の概要を教授に見せて話す。くっそみそに言われた。「そのまま書けばいいんじゃない?」と言われたら完全に見放されているだろうし、「がんばれ」ということなのだけれど、なにげに落ち込んでしまったし、そうやって、おちんこでている自分に驚いた!!
                 ぐはー。
 しかし、そんなこと言ってても何の意味も無いし、このアドバイスを適切に判断することも問答の一つであるので、以下反省しながら今後の展開を言語化してみよう。


 「まず、大きく分けて3つのブロックで構成するつもりだった。昨今の音楽界隈の変化、インターネットの持つ特性と思想、そしてそこにダイレクトに影響を与えた(と言われる)イヴァン・イリイチのコンヴィヴィアリティ概念について。

 イリイチは、産業社会の発達によって「より良く生きる」ことが強制されていることを指摘し、その観点に基づいて進歩史観的に進んでいこうとする現代の感性を批判しているように見える。彼がしばしば例に挙げるものである、学校・医療・交通という3つの要素は、産業社会の論理によってそのクオリティを上げながら、実は返って私たちの自主性のようなものを破壊している。専門的な知識の必要性が上げられていくことが、それ以外のあり方を否定する方向につながっているという。そして、すっごいヒエラルキー的な知識の階層が堂々と生じ、それ以外を迫害し、だが彼らもその構造論理に入っていてその構造を支持する役割を自ら担っているという。イデオロギーですかね。
 この産業社会的な道具のあり方をブッ倒すものとして、「コンヴィヴィアリティ」という概念を持ってきた。まだはっきり理解してはいないのだけれど、トップダウン型の情報伝達ではなくて、周辺の人々と学びあうといったものではないか。ここ重要。
 たとえばイリイチは、学校というものを、「学ぶ」ことを迫害し「教育」に転換して知識的なものの専有化、それ以外の人々の無意味化を構造化するとして批判し、これに対するものとして「Learning Web」という概念を提唱した(そうだ。『脱学校の社会』はまだ読んでません。)が、実はインターネットの成立にはこの考え方が反映されているという。 →『インターネットが変える世界』

 インターネットの現状、たとえば「Web2.0」と言われるような(そんなもん無いという批判をよく見ますが)ネットの使い方などは、このイリイチの思想に近しいものがあるのではないだろうか?というのは僕の勝手な感想なのでそれを如何に説得力もって展開するかが鍵だと思っていたのだが、方向性を述べるだけなのでここではまだ深くは考えない。
 たとえば、だけど、オープンソースの考え方とか、マスメディアに対するネットの議論の双方向性、なんてのはありがちだけど考えるべきポイントだと思う。

 そして、「書きたい」と考えていることの一つである「日本のポピュラー音楽界隈の変化」だが、これはインターネットの普及が大きく影響していると考えている。しばしば議論されているような、デジタル化ネットワーク化によって可能になった行動、産業のあり方、そしてそれらによって引き起こされている様々な問題、たとえば著作権問題であったりするようなものを論じたい。
 背景となる考え方として、「プロシューマー」や「作曲のレゾー」といった未来予言的な言説の具体化という、そんな切り口は面白いなと思う。

 結論の方向としては、これこれのことが生じてます、その具体的状況の裏側にはイリイチの思想が関連しています、彼は産業社会をブッ倒すものとしてコンヴィヴィアリティのための道具を捉えていましたが、状況の持つ方向性としてはむしろ、倒すというよりは、回避しながら楽しむことを目指しているのではないか。そうやって生き残る知恵を実践的に探すことにこそ意味があるのではないか。というようなことを言いたいです。」

 ということを話したら、それは「根本的な問題を考えていない」と一刀両断。過渡期的な状況の紹介に過ぎないのであればジャーナリズムでしかなく論文とはとうてい言えない。しかも音楽のことを扱いたいというのは僕個人の趣味であり、他の領域で語らない理由にならない。現状肯定では、「自由」を求めているような行動の紹介を通じて、「手のひらの上で踊っているような」状態を肯定するだけにしかならない。出直して来いやゴルァァァァ!という感じでございました。。。

          「根本的な問題」かーーーー

 というわけで一日考えたり現実逃避のために戦争映画観たりしていたんですが、ここで言う根本的な問題というのは、それこそ「資本主義的産業社会に対する批判」ということなのだろうか。
 僕の上のような物の見方というのは、イリイチの思想に立脚していながら、彼の行う産業社会批判についてはスルーしている形になる。インターネットの存在がイリイチの言うような、圧倒的な変革を人間の感性にもたらすものであれば、すでにそれが起こって産業社会は崩壊し私たちは幸せになっているはず。なのにそうなっていない。問題の所在は何も変わっていない?
 なのに、そこんとこを無視して、「だって仕方ないもん」と言って、「でもこんなにいろいろ起きてるよ面白いよ」と言うだけならば、それこそ便所の落書きで十分でありブログにでも書いてろよハゲ、ということか。というように考えている。

 たしかに、その部分は根幹を成すものでありながら、僕の論文では華麗にスルーするつもりであった。これでは意味が無いということなのだろうか。以前、アドルノの文化産業批判についてレポートを書いたことがあるのだが、その時に僕が至った結論というものも、アドルノの目線は非常に正しいし、現代でもその議論は有効で、だって資本主義に完全に飲み込まれてるもの僕ら、だけどそんなことばっか言ってても未来が暗く見えるだけで、見方を変えてこんなに楽しいことが起きている部分に目を向ければいいじゃん。重要な問題系は回避して、小さな面白さを追及して、それで満足できればそれでいいじゃん。むしろ、逆に、そういう部分に力点を置いて生きていく、というあり方の探索に集中しなければいけないはずだ。というものだった。今回の卒論で書こうと思ったことと基本的には同じだ。
 だが、教授の言う「根本的議論の欠落」というものは、やはりどう考えてもこの部分を指しているんじゃないだろうか。要するに逃げるなってことだ。僕の考え方は非常に消極的で、支配されている構図を再生産することには加担しても、その基盤となる構図をどうするかってことは「考えない」わけだからダメだ!と。ぐぬぬ

 僕は左翼的な意見については共感もするけれど、どうもなーという気がしている。でも、こうやって考えてみると、根っこの方にある問題を考えるには現状の批判しか方法は無いのだ。そして現状それの力になる思想基盤は左翼的だ。そこを考えないこと、表層的な物事を追うことも確かに面白い、だが、卒論だろ?ここで頑張らないとお前何したくて大学院行きたいとか言ってんだよって話か。。。。。
 
 というように理解した。
 こうなると、僕にいまできることとは、イリイチという思想軸をもっともっと理解することだ。インターネットが何かを変えるはずだと感じている。そこには彼の思想が根本的には影響している。でも変わってない。では何が問題で変わらないのか、どうしたら変えられるのか。表層的な面白さを追求することも良い、だがその前に、その部分の根幹を成す議論について考えろ。別に革命的な何かがあるとかいう古い考え方ではなくて。その基盤について考え、思想を持って、その上でインターネットを通じて生じている行動を見て何か変換への糸口を見つけろ。そういうことだ!!!
 ちくしょー再来週とかにはもう一度ブッ込んでやるぜ。